ものぐさ雑記帳

なんでもない日々をなんとなく生きる

12月6日午前4時くらい

今日(厳密にはもう昨日だが僕にとっての今日は起きてから寝るまでなのでさほど問題ではない)も特に代わり映えのない一日だった。

日中は仕事。今やっていることはそれほどつまらなくないので、そこそこ気に入っている。ただあまり仕事について考えても仕方がないのでそこそこの仕事したということで留めておく。

今日はまだ意思決定リソースに余裕があったのか、献立を考えながら買い物をして帰宅してから夕飯を作ることができた。

最近サボっていた自炊を再開して改めて思うが、自分で作った食事は本当に美味しい。

自分がその時食べたいものを、自分の手で、自分の好みに合わせて、自由に作り、味付けし、何者にも邪魔されずに、自由に食し、味わう。

至高の行為だ。これが出来るか出来ないかでその日一日の幸福度が2段階は違ってくる。

実際、僕は外食があまり好きではない。正しくは外食を続けることが好きではないというべきだろうか。

余裕が無い時や別のことに時間を割きたい時は外食をしているので、外食を否定する気はないのだけれど、ずっと外食を続けていると、わざわざお金を払って出された餌を食べているような、食事がただのエネルギーを摂取するだけの無感動な行為に思えてくる瞬間がある。

生きていくために必要な行為の、本当に必要最低限の部分だけを切り取って与えられているような、そんな無機質な感覚。

自炊にはそれが全くない。当然失敗することもあるが、その料理はその料理で何か面白さというか愛おしさのようなものがあり、負の感情が生まれることはない。

「自分の食べるものを自らの手で作る」という過程を実体験として経ることで、食事というエネルギーを摂取するための行為に対して、美味しさという尺度とはまた別の、何か根源的な意味付けが成されるのではないかと思う。

 

自炊はいいね、心を癒やしてくれる。

12月4日午前4時くらい

他人の意見や考えに対して何か言うことは簡単だ。

一番簡単なのは否定することで、これはもう簡単すぎて反吐が出る。

とりあえず否定することなら誰にだってできる。

だからこそ多用される。何も考えずに意見した気になれるからだ。

この記事だって否定を否定しているだけで、何の意味もない糞だ。

こうして否定に否定を重ねる不毛な空間が形成されていく。

何の進歩もない。ヘイトをかき集めて腐らせた糞以下の何かだ。

インターネットではそんな肥溜めをいたる所で見かける。

ネット肥溜めそのものに意味は無い。

でもネット肥溜めが"ある"と言うことには何かしら意味があるのかもしれない。

誰も必要としなければ、そもそもネット肥溜めが出来ることはないはずだ。

ネット肥溜めは言わば、何の準備もせずに思い切り糞を投げ込める空間であって、これはこれで貴重な場所とも言える。

少なくとも、思い切り糞を投げつけるのが最高に気持ちいい行為であることは間違いない。

真に反吐が出るのは、ただの糞の投げつけ合いを何か"良いこと"や"正義の執行"と勘違いしている輩を見つけた時だ。

正しい行いだと信じて糞を投げつけているのだから、そこにはもはや何の救いもない。

せめてもっと自覚をもって糞を投げつけてくれ。

何のために働くのか

ネットの海を漂っているとそれなりに見かけるこの設問。

少し立ち止まって考えてみた。

僕の場合、パッと思い浮かぶのは「生きるため」だけど、これはあんまり正確でない気がする。多分今ほど働かなくても生きていくことはできるだろうから、試したことは無いけど。

そもそも自分の行動原理を「○○のため」なんてシンプルな回答に集約すること自体に無理があるのではという気もする。確固たる答えを持っている人はそれは素晴らしいと思うけど、かといって答えを持っていない人間が優れていないか言えばそんなことも無いだろう。ただ、何かしら答えらしきものを持っていた方が生きやすい、という見方はある程度正しいように感じる。

そうやってウダウダ考えていると、より即物的な「お金を稼ぐため」が今のところ僕にとっては一番正しそうな気がした。「労働」を自身の労働力を一時保存可能なお金に変換する行為だと規定すると割とすんなり腑に落ちる。

保存不可能な労働力よりも保存可能なお金の方が圧倒的に便利だし、変換効率にも今のところ大きな不満は無い。だから働いている。

そのお金で何がしたいとかいった確固たる目的は特に無い。お金の方が便利だから従事しているだけで、無いもんは無いんだからこればっかりは仕方ない。

そりゃ何か欲しいものがあったらもちろん買うし、やりたいことができたらやる。別にそれでいいんじゃないかな、保存可能なんだし。

日本の医療保険制度ざっくりまとめ

医療保険制度について触れる機会があったので、実はよく分かってなかったこの制度についてざっくりまとめておく(平成29年5月17日現在)。

日本の医療保険制度には大きく分けて、企業で働く被用者とその家族の加入する「被用者保険」と、自営業者や農業従事者や加入する「国民健康保険(国保)」がある。

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被用者保険はさらに、大企業等の健康保険組合が運営する組合健康保険(組合健保)と、健康保険組合を持たない中小企業向けに全国健康保険協会が運営する健康保険(協会けんぽ)、さらに公務員向けの共済組合に分かれている。

ちなみに国民健康保険の運営主体は各市区町村だが、平成30年度からは運営主体が都道府県に移ることが決まっている。(参考:医療保険改革法案が成立 国保を都道府県に移管、平成30年度から - 産経ニュース

まとめると次のようになる。

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保険料率も各健康保険によって異なる(ややこしい)。各保険の保険料率は運営主体毎に定められており、大体は各運営主体のHPで確認ができる。

細かく見ていくともっと色々あるだけど、とりあえず一般人がざっくり知っておくのに十分な情報、という要件はこんなもんで満たせているのではないかと。

責任

責任の範囲についての考え方で、最近読んだ本に興味深い記述があったので残しておく。

法哲学者のドウォーキンらの『責任と補償の原理』曰く、

ひとは自らの自由意志によって支配できる選択の帰結に対しては責任を追うべきである。

原文を読んだわけではないので細部のニュアンス(「ひと」や「自由意志」とは何か等)は定かではないが、直感的には納得感があり、合理的な考え方だと思う。

不祥事に対する責任の追求が声高に叫ばれる一方で、その定義や範囲が曖昧なまま置き去りにされている光景をよく見るので、自分なりの考えを持っておくことは重要に思う。

映画感想「ゴースト・イン・ザ・シェル」

先日、「ゴースト・イン・ザ・シェル」を観てきた。

僕の変化に乏しい生活の中では、数少ないネタになりそうな事象なので、折角だし感想を残しておこうと思う。以下、あくまで個人の感想である。

  

結論から言うと特に面白くは無かった。

基本的にはアニメ版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を踏襲しつつも、初めて攻殻機動隊に触れる人にも受け入れられるよう結構な改変がされており、もはや完全に別の作品という方が正しいだろう。

中にはアニメ版の特徴的なシーンを実写で忠実に再現したシーンもいくつかあり、それはそれで興味深かった。

ただアニメ版全てをそのまま実写化するのに無理があることは想像に容易いので改変自体は必要だったろう。しかし、その方向性が僕には受け入れられなかった。

ハリウッド版は少佐の人間性に徹底してフォーカスした脚本となっており、普通に感情を表に出すし過去の記憶が無いことに思いっきり悩んでいたりする、あの少佐がである。

確かに映画単体としてみればそれなりにまとまっているのかもしれない。しかし”攻殻機動隊”という切り口で見た時には、少佐という物語上の特別な存在を一般人のレイヤにまで落とし込まんとするハリウッド版の追加要素はそのことごとくが邪魔に思え、ツギハギだらけの何とも不恰好な作品に見えた。

結果として「苦悩の中で成長を遂げ、さらなる高みを目指して飛び立ってゆく…FIN」的なある種お約束の枠組みの中にそれはもう綺麗に納まっており、視聴後は「こんなしょーもないもん攻殻持ち出してまでやることかよ…」というやるせなさに包まれること請け合いだ。

ただ完全に無価値だったかと言うとそんなことはなくて、唯一価値を感じた点を一言で表すと『現代の最先端の映像技術を駆使して攻殻機動隊を実写再現してみた』だ。

映像そのものの面白さは確かにある、あるが、それにしたってその動画に1,800円はやりすぎだろう。

 

以上